東京で耐火建築物の住宅を建てるならRCdesign

くもり空の東京です。

そんな今日は朝から資料作成、会社説明会、原稿作成、台東区計画検討など。

午後からは池袋方面、帰社後は練馬区江古田のお客様とお電話、豊島区西巣鴨計画検討、来客面談、事務機屋さんと電話、文京区根津計画検討など。夕方は新規のお客様にご来社頂きました、ありがとうございます。書類作成、ミーティングなど。

大通りの銀杏並木を通ったら、銀杏が沢山転がっていました。

ではこちら。

江戸の大半を焼いた「明暦の大火」後、幕府はいよいよ防火対策に本腰。江戸の町はどう変わった?

明暦3(1657)年1月18日に未曾有の大火事、明暦の大火がおきたことで、幕府はいよいよ防火対策に取り掛かりました。江戸三大大火の一つ「明暦の大火」については以前ご紹介しました。

防火対策、まずは江戸城です。郭内に火除け地という空き地を造り、城下からの火災が発生しても城内への延焼を防げるようにしたのですね。また、大火以前は武家屋敷も豪華な建物で大きな門を構えていましたが、梁間三間(はりまさんげん)約5.9m以上の建築物は禁止になりました。そのため、江戸城下から豪華な武家屋敷はなくなってしまいます。

町人地には、火除け地と防火堤を新設しました。火除け地は広小路とも呼ばれ、大火の延焼を防ぐことが目的です。これらを作るために市中の町屋を移すこともあり、中山道に通ずる外堀交通の要地=筋違橋門内にある連雀町もそのひとつでした。橋を火災から守るべく、近隣の住民は武蔵野の郊外へ移されたのです。
2017年9月20日 3時34分 Japaaan

なるほど。

これはなかなか興味深い記事です。

今から360年前に江戸で発生した大火から、当時の幕府がどのような対策を考えて実行したのか、またその効果はどうだったのか、とても参考になる記事だと思います。

言い伝えに聞いたことがあると思いますが、Wikipediaにも書かれているように、日本の江戸時代における江戸の火事は、「火事と喧嘩は江戸の花」という言葉が残っているくらい、現代では江戸が「火災都市」と呼称されるほど、頻繁に火事が発生していたそうです。

これだけの大火が頻発し、都市の広大な市街地を繰り返し焼き払った史実は、世界でも類例がないとされているだけに、その後の都市計画には経験が生かされたと思いたいところです。

防火対策には耐火建築も必要ですが、時代が時代だけに、RC造はまだ日本に来ていなかったようです。記事の大火以前は、やはり木造建築が密集していたので火事が起きやすい環境だったということから、江戸には3タイプの町屋をつくられることになったそうです。

まず三つあるうちの一つが土蔵造りです。これは屋根を瓦葺きにして軒裏や壁、建具など外側をすべてぶ厚い土壁塗りしっくい仕上げにする建築方法で、当時としては最も本格的な耐火建築と考えられていたようです。

二つ目は、塗屋造りというもので、これは屋根が桟瓦葺き、外回り特に二階正面のみを土壁塗りしっくい仕上げにし、一階正面と側面、背面は木造下見板張りにするという簡易的な耐火建築の町屋ということです。

そして三つ目は、焼屋造りと呼ばれるものです。裏長屋がこの建築方法で、屋根は板葺き、外壁はすべて下見板張りという、実に粗末なものでした。耐火対策をまったくしておらず、火事のために焼けるので、焼屋造りと呼ばれるのだそうです。何とも恐ろしい建築ですね。

全ての建築物が土蔵造りだったら、もっと歴史的建造物や資料が残っていたでしょうし、日本の資産も蓄えられていたのではないでしょうか。

民間の建物までを耐火構造にするには、多くの予算が必要になるでしょうから、江戸時代だとさすがに難しかったと思いますが、今なら少しの補助金等を支給するだけで、簡単に耐火建築物に変えることが出来るんですけどね。

実はまだまだ江戸時代から続いている木造密集地域が残っていたり、焼屋造りとまでは言わないまでも、火災に対してあまりにも無防備な家が多く存在していることも事実です。

今の時代、ちょっと真剣に考えれば耐火建築物にすることはそんなに難しいことではありません。

共同住宅が木造アパートからRC造のマンションに変わったように、一戸建ての住宅も木造からRC造に建て替える必要があります。

東京を守るためにも、住まいはRC(鉄筋コンクリート)住宅をご検討ください。

それでは。

今日もありがとうございます。


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